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歴史

沖縄の歴史

歴史

HPで記載された人物や簡単な歴史・伝承について解説します
沖縄は日本本土と交流はありますが中国、朝鮮、東南アジア諸国との交流の中で独自の文化を発展させていきます。

旧石器時代
沖縄の旧石器時代の特徴として日本本土では人骨の発見がほとんどありませんが
沖縄は石灰岩土壌(アルカリ性)のため骨が酸で溶けることなく骨が残され発掘されています。
古くは3.6万年前と思われる人骨が発掘されています。
日本では石器の道具を使い生活していた人々が土器を造り使用するようになり、縄文時代に突入します。

縄文時代
沖縄では縄文文化の特徴である土偶や石鏃は発掘されていないため縄文時代とは云わず貝塚時代(前期)と云っていました。
近年になって縄文時代の青森県亀岡の大洞土器が北谷町の平安原遺跡で発掘され 縄文平行期ともいわれるようになっています。
縄文期時代の土器など発掘されており沖縄にも日本本土の影響をうけて縄文時代があったことがわかります。

弥生時代
日本では縄文時代の後に灌漑稲作農耕が始まり弥生時代へ突入しますが、沖縄では農耕文化が定着せず、
相変わらず狩猟や漁労を中心とした生活が続きます。
この時代沖縄では貝塚時代後期と呼ばれています。
その頃から沖縄にも農耕が日本や大陸などから伝わり徐々に定着し始めたと思われます。

グスク時代
沖縄でも農耕が定着していく中で日本の弥生時代のように血縁集落が発生し
いくつかの血縁集落が集まり防御施設を作り出したり、
先祖を祀るための施設を作り出したのがグスク時代の始まりでその施設が現在でいうグスクと推測されます。
この後の11世紀頃から急激に人口の増加や経済的転換が進行しグスク時代へ突入します
文献に現れるのが14世紀の明実録になりますが、沖縄のことと思われる文献(隋書)(日本書紀)も7世紀ごろからあります。

伝説に残る歴史時代
伝承によると天孫王統が琉球を治めていたと伝わります。25代続き17500年も続いたと云われています。
その25代目の天孫王統の時代に家臣である利勇と云う者が謀反を企て天孫王を殺害、王の位に就いたと伝わります。

瞬天王統
天孫氏を殺害した逆臣利勇に義憤し討伐にあたったのが源為朝の息子と云われている瞬天です。
この瞬天が沖縄の公式な歴史書に初めて登場する王となります。
歴史書では瞬天王は1187年に即位し瞬馬順燕王と続き義本王のときに旱魃や流行り病で国が乱れ英祖王に王位を1260年に禅譲したと書かれています。
歴史書に初めて登場した琉球瞬天王統は1187年から1260までの3代73年間となります。
最後の義本王に関しては玉城グスクの項に伝承があり掲載しています。
琉球の公式の歴史書に記載された王統ですが伝説の域を出ず、実際には存在しなかったとも云われていますが、
今後の研究次第では実際に存在した王統と証明される事を期待します

英祖王統
瞬天王統の跡を継いだ英祖王ですが英祖はティダのコと云われ母親が太陽が体に入る夢を見てできた子との伝説があります。
英祖の父親は恵祖世主で天孫氏の末裔と云われて天孫氏の復権となります。
英祖王の時代に租税の制度を整え、ようどれい(王陵)の築造、仏教の普及に尽くしています。
英祖王のあと4代目の玉城王の時代に政務を疎かにし酒色に溺れ国が乱れ 実力者が離れ国が3つに分かれ三山分立の時代になったとれ云わています。
玉城王の死後息子の西威王が跡を継ぎますが世の乱れは収まらず、当時徳の高い謝名村の察度へ王位を譲ります。
英祖王統は1260年から1350までの90年間。初代:英祖 2代:大成 3代:英慈 4代:玉城 5代:西威 の5代で次の察度王統へ続きます。
この英祖王統から実際に存在した王統ではないかと云われています。
ようどれいに残る骨を調査した結果様々のことがわかり実際に存在した王統である可能性が高いことがわかっています。
英祖王統最後の西威王については玉城グスクの項に伝承を記載しています。

察度王統
英祖王統系の跡を継いだのが察度王となります。この察度の母親は天女であったと「羽衣伝説」に伝わっています。
察度王は鉄を輸入し農具を造り民に与え、徳を備え浦添按司そして中山王へ推されていったと云われています。
この察度王の時代1372年に明との朝貢が始まります。察度王の時代に始まった冊封は1874年まで500年間続きます。
明との交易の中で中国の文化に大きく影響を受け文字による歴史史料がこの時代から残されるようになります。
察度王時代から文字資料が多くなり琉球の状況がわかります。のこ時代の琉球は三山に分かれそれぞれ王が存在する時代です。
このHPではこの時代の伝承を多く記載しています。
察度王の跡を継いだのが武寧王になりその後三山を統一する第一尚氏へ滅ぼされてしまいす。
察度王統は1350年から1405迄の55年間。初代:察度 2代目:武寧の2代で次の第一尚氏時代(琉球王国時代)に入ります。

第一尚氏時代(三山統一)
中山武寧王を滅ぼした尚巴志は父親である思紹を中山王に立て三山の統一に励み、まずは1416年に北山攀安知王滅ぼします。
その後1429年には南山他魯毎王を滅ぼし念願の琉球の三山を統一します。
第一尚氏は初代:思紹 2代:尚巴志 3代:尚忠 4代:尚思達 5代:尚金福 6代:尚泰久 7代:尚徳と1406年から1470年の64年間続きます。
この時代の伝承については玉城村 仲栄真グスクなどに若干掲載しています。
7代目の尚徳王の頃、財政が悪化する中、尚徳王は喜界島遠征を強行し更に財政を悪化させる事になった。
この事態に対し尚徳王に諌言したのが御物城御鎖之側であった金丸であった。
金丸は先王の尚泰久の重臣であり現在で言うと財務大臣と市長を兼任したような重職についていました。
尚徳王は諫言を煩わしく思い金丸の職を解き(西原)内間の地へ隠遁させてしまう。
尚徳王が若くして亡くなり次の王をだれにするか話し合いの中で安里大親の進言で金丸が王位に就くことが決まる。
と、されていますが実際にはクーデターによる政権奪取と推測できます。

第二尚氏時代
金丸=尚円王から始まる王統を第二尚氏王統と云います。
尚姓でもない金丸がなぜ尚姓を名乗ったか推測すると、明に対し冊封をスムーズに継続させるためと考えられます。
第二尚氏王統は14代続き、1879年の廃藩置県で終わりを告げます。
この王統時代は特に3代尚真王、4代尚清王の頃は大交易の時代で琉球王国で一番輝かしい時代かもしれません。
7代目尚寧の時代1609年に薩摩の侵攻を受け琉球は薩摩の支配下に置かれてしまいますが、
国としての体裁は変わらず明・清と交易を継続し交易で得られる利益の一部を薩摩へ献上することになります。
この薩摩侵攻を境に学問的にはこの前の時代を古琉球と云い、この後は近世琉球と区分されます。

北山と南山

北山と南山について簡単に説明します

北山

北山の開闢は天孫氏一族が今帰仁へ来て城を構え周辺の住民を従え代々この地方を領有し栄えていたのが始まりと云われています。
天孫氏25代のときに逆臣利勇の謀反により天孫王が滅びてしまう。その際に北山王も共に滅んだとされています。
中山では源為朝の子と云われる瞬天が利勇を討ち中山を治めるようになりますが、
北山は源為朝と(今帰仁)勢理客ノロとの間にできた子大瞬が(瞬天王の兄)北山を治めるようになります。
大瞬には跡継ぎとなる男子がいなく瞬馬順燕王(瞬天王の子)の次男が跡を継ぎ今帰仁城主となります。
その今帰仁城主にも跡継ぎいなく天孫氏系英祖王の二男を湧川王子を養子として跡を継がせたという。天孫氏系の復権である。
その湧川王子系3代目のときに本部大原の謀反があり今帰仁グスクが乗っ取られてしまう。
その際に今帰仁城主の跡継ぎ丘春は今帰仁グスクから逃れ山田グスクそして北谷グスクへ移り住み、
18年後に旧臣を集め本部大原を討ち今帰仁グスクを取り戻したと伝わっています。
その次の時代に羽地地方で勢力を強めていた今帰仁城主の従弟にあたる怕尼芝なる者が今帰仁城を攻め今帰仁城主となります。
三山時代の北山王国の 始まりでありその後はa王が跡継ぎその後を攀安知王が継いだとされます。
攀安知王の代に明から冊封を受け王国として繁栄しますが尚巴志によって北山王国は滅ぼされてしまい、三山統一へ時代は進みます。
統一後の今帰仁グスクは北部地方を監守する役所として利用されていきます。

南山

南山は英祖王の子大里王子から始まると云われていますが源為朝伝説の中では源為朝と大里按司の妹との間に夫婦の契りを交わし
その後瞬天が生まれたとあり、その時代(12世紀半ば)にはすでに大里(南山)グスクが築城されていたと推測できます。
大里王子の子が大里按司となり跡を継ぎます。その大里按司の子が島尻世主大里按司となり島尻地方を治める程強い勢力を誇っていたことがわかります。
その子の時代に三山分立の時代になり大里按司ではなく南山王と名乗り島尻地区を治めていきます。その南山王の子が歴史書に記される承察度王となります。
承察度王の時代に叔父である汪英紫氏は勢力を強め東島尻地区を治めるようになり居城は島添大里グスクと呼ばれるようになります。
南山では承察度王と叔父汪英紫氏が明国と朝貢を行っています。南山は武勇割拠の時代で完全に統一された国ではなかったと推測できます。
その承察度王の跡は子がいなく従弟である汪応祖が南山王となりますが兄の達勃期に殺害され王位を奪われてしまいます。
諸按司はこれに反発し兵を起こし達勃期を討ち汪応祖の長男他魯毎を推して南山王としました。
その他魯毎王のときに尚巴志に攻められ1429年に滅ぼされたと伝わります。

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