トップ|南城市|参考資料|歴史|管理者

南城市

トップページ

大川グスク

大川グスクは尚泰久王の次男である三津葉多武喜が一時居城した所であるが、城壁はなく仮の居住あとと思われます。
そのあとに弟の住む仲栄真グスクへ移り住んだといわれています。
尚泰久王の子供たちが玉城に住んだのは叔父である布里を頼って来た、と伝わっていますが布里の父は5代国王尚金福であり
王位継承を叔父の志魯と争い、首里城をも炎上させた内紛の上、双方とも亡くなり尚泰久が6代国王を継いだとされています。
伝承では内紛のなか布里は玉城當山へ逃げ隠れたと伝わっています。その地には布里の墓が建てられています。

大川グスク1 大川グスク2

左:大川グスクの入り口だったのか?
右:入り口左側岩山の奥は雑木が茂り遺構等確認できません

大川グスク3 大川グスク4

左:入り口よりグスクがあったと思われる場所を臨む
右:布里の墓

布里について

第一尚氏5代国王尚金福が亡くなり、尚金福の子である志魯と尚金福の弟である布里との間で跡目争いが勃発します。
その争いの中で志魯は首里城に火を放ちます、その事に激怒した布里は志魯を討ちに出ますが共倒れになったと歴史書に書かれています。
実際には布里はその争いで生き残り玉城の當山の上江洲という家に逃げ込み上江洲家を作ったと伝わります、
その位牌には布里があちらこちら逃げたところが墨で書かれていたと云います。
戦後に墓を修復した際に骨甕を調べてみると天順8年(1468年)58歳で亡くなったと書かれていた。と伝わっています。

inserted by FC2 system